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「ふるぼう」のブログがYahooから引っ越しました。

エリザベート展

インフル発症から4日目、もうすっかり平熱になって朝から家事を普段どおりにやっていたのですが、まだ周りにうつす危険性のある時期なので、家からは出ないようにしていました。
さて、今日の記事はインフル発症前日に横浜のそごう美術館で見てきたものです。
23日で終わってしまった展覧会なので、駆け込みで見られて良かったです。
 
輝ける皇妃 エリザベート
 
イメージ 1
 
オーストリア皇妃 エリザベートWikipediaにはこう記されています。
エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ(1837-1898)バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女。オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。「シシィ」(Sissi, Sissy, Sisi)の愛称で知られる。
 
オーストリア・ハプスブルグ家といえば、女帝マリア・テレジアや、彼女の末娘でフランス王妃となって断頭台の露と消えたマリー・アントワネットを思い浮かべますが、彼女たちの時代から約100年後にハプスブルグ家に嫁いできたエリザベート皇妃もオーストリアでは大変人気の高い女性です。
この展覧会では、彼女の肖像画や所持品、当時とゆかりの深い品々を通して皇妃エリザベートの生涯と足跡を振りかえろうというものでした。特に、彼女が好んで身につけていたと言われる「星の髪飾り」は日本で初めての公開となります。
 
バイエルンの公女として生まれたエリザベートは、15歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの妃となります。
しかし、ウィーンの宮廷での厳格な儀礼尽くしの生活は、 バイエルンで奔放に育った彼女にはなかなかなじめず、皇帝の母(姑でもあるが、彼女の実母の姉=伯母でもあった)との確執に傷つき、一つのところにとどまれないエリザベートは漂泊の旅を繰り返します。その一方で、美こそが社交界での最高の武器となりうることを知ったエリザベートの美の追求はハプスブルグ家の他の女性には到底及ばないものでした。
 
イメージ 3  シーンごとに使い分けた多くの扇やドレス、マント、ハンカチなどの小物、ア  クセサリーをはじめ、彼女がその美貌を維持するために努力を惜しまなか   った品々がありました。
 
  筋トレをするための鉄アレイや吊り輪!ウエストをしめるためのコル  セットなどなど・・・
  何しろ彼女は身長172cmでありながら、体重は45~50kgを保ち、  ウエストは50cmであったというのです!
  (4人も子どもを産みながら、よくその体型を維持したと思います)
 
 
そのために、数キロの牛肉の塊から絞った肉汁しか飲まない、とか卵白に塩を少々混ぜたものしか食べない、というダイエット法も実践していたそうです(でも女性らしくスイーツは好きだったようです)。
幼いころから乗馬が得意だった彼女は、皇妃となってからも当時のヨーロッパではトップレベルの乗馬の腕前を維持し続けました。
また、浴槽を宮廷内につくり、顔のパック、オリーブを利用した入浴、時間をかけた洗髪などエステ・美容に対するこだわりも相当なものだったそうです。
 
ウイーンで開かれた万国博覧会をはじめ、どこに出ても皇妃をひと目みた人々を熱狂させたエリザベートは、その生涯の後半ではますます旅にさすらうようになります。そして旅先(スイス)で無政府主義者を自称する男に暗殺されて生涯を終えることになるのです。それから16年後、ハプスブルグ家の皇太子はサラエボで暗殺され、第一次世界大戦が勃発、エリザベート没後20年となる1918年に最後の皇帝カール1世が退位して、ハプスブルグ王朝は終焉を迎えることになります。
 
イメージ 4オーストリアが共和国となった現在でも、国民の人気が高いフランツとエリザベート(シシィ)ですが、
実は今でもウィーンにその夫妻は暮らしています。
 
ハプスブルグ家が居城としていたシェーンブルン宮殿の敷地内にある、世界最古の動物園といわれるシェーンブルン動物園(マリア・テレジアの夫君であるフランツ1世が創設したそうです)。
 
ここに住むパンダ夫妻の愛称が、フランツとシシィです
イメージ 2
中国からレンタルしたつがいの
パンダのオーストリアでの名前を
募集した時、フランツとシシィに
投票した人が多かったそうです。
 
右の写真はネットで探したパンダ
のシシィです。
エリザベートのように、奔放な
メスパンダらしいです。そして、
このパンダ夫妻もかつての
フランツとシシィのように仲が
よく、これまでに自然交配で
2頭の子パンダが産まれて
動物園一番の人気者だそう
ですよ。