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船の旅と横浜港 秘蔵コレクション

そして、訪れた日は開館25周年記念展「船の旅と横浜港 秘蔵コレクション」の最終日でした。

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まだ航空機での移動が一般的ではなかった、海外への渡航といえば船旅だった頃、横浜港は貨物よりも人々が行き交う華やかな場所でした。記念展ではその頃の船会社のポスターや、船旅用のトランクや客室の調度品、レストランのメニュー等が展示されていました。お昼のフルコースの煮込み料理として「カレーライス」があったりしたのです。
また、チャップリン氷川丸で揚げたての天ぷらを好んで食べていたというエピソードなどもありました。

戦後旅客機が普及して客船はどんどん廃れてしまいましたが、今度は「クルーズ」という形で、ゆったりと船の旅を楽しむ人が増えて来ました。横浜港では大さん橋が客船の埠頭となり、ここを母港とする「飛鳥」をはじめ、多くの外国航路の船や伊豆諸島に向かう船が発着しています。3月には「クイーンエリザベス三世」号が寄港しました

でも、この展示会の最大の目玉は「タイタニック日本人生存者の手記」でしょう。

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中学の英語の授業でタイタニック号の沈没事故をやった時、既に「YMOタイタニックには関係がある」ということを知っていた子はいました。YMO細野晴臣さんの祖父である細野正文さんが、タイタニックの唯一の日本人乗客として2等客室に乗っていたのです。

鉄道省の高級官僚としてロシア留学をしていた帰路、話題となっていた「処女航海に向かう豪華客船タイタニックに乗った」ことは、日本で待つ家族にとってこの上ない土産話となるはずでした。しかし氷山に衝突したタイタニックは沈没します。細野さんは辛うじて救命ボートに乗り救出されますが、救出されたカルパチア号の中で、背広のポケットに入っていた「タイタニック客室備え付け便箋」に一連の出来事を詳細に書いたのです。

一部始終が記された手記からは、パニック状態に陥った人々の絶望や、日本人として恥じない振る舞いをしようと心がけつつも、何とか生き延びたいと願う彼の気持ち、救出された後のカルパチア号での出来事や気持ちの変化などが克明に綴られていました。
船会社であるホワイト・スター・ラインの紋章と「TITANIC」と船名が印刷された便箋は、貴重なタイタニックの現存資料となっています。100年以上前の便箋ですが保存状態も良く、ディカプリオの映画の世界だったタイタニック号が多くの命を乗せたまま沈んでしまったことをまざまざと思い起こさせるものでした。

カルパチア号でニューヨークにたどり着いた細野さんは、アメリカ横断を経てサンフランシスコから日本の客船春洋丸に乗り、横浜港へ帰って来ました。しかしその後、女性と子どもが優先的に救命されるルールの中で生きて帰ってきたことを非難され、高級官僚だったのに降格させられ官僚を辞職することになってしまったのです。
細野さんは帰国後に細野晴臣さんの父をもうけていますので、彼がタイタニックから生還しなかったらYMOは結成されなかったワケなのです。

細野さんの没後だいぶたってから家族がこの手記を発見し、彼が生き延びた経緯も分かり、ようやく汚名が灌がれたのでした。そして細野さんの手記は、ご遺族によって横浜みなと博物館に寄贈されました。
今回の展示は終わってしまいましたが、また別の機会に見ることができるかもしれませんね。